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 インターネットで検索してみると、「ひきこもり」のためのホームページが実にたくさんあることにびっくりしますが、さらに驚かされるのはそこにあふれる「言葉」のおびただしさです。
 どのホームページを見ても尽きることのない言葉、言葉、言葉……、その大洪水のような量だけで圧倒されて目眩がしそうなほどです。
考えてみれば不思議です。そこでは、社会や学校と断絶している人たちが、実に雄弁に言葉を操っているのです。「掲示板」ではさまざまな意見や感想を述べ合い、「チャットルーム」では他愛のない出来事から深刻な相談まで、夢中になって話し
ています。  自分の中にこれだけの言葉を抱えていながら、彼らは一歩、その世界から外に出れば、社会とソリが合わず、学校に違和感を覚え、それより何より、彼らがホームページにアクセスしている、その同じ屋根の下に住む家族とすら、交わせる言葉を持ち合わせていません。
 それは同時に、社会の側も、学校の側も、家族の側も、彼らとうまく話せる言葉を持ち合わせていないということでもあります。
 その昔、「会話をする」ということは、「直接会って話す」ということでした。
 それが電話の急速な普及によって、やがて「電話のほうが話しやすい」という人たちが現れました。それからFAX、Eメール、携帯電話と次々に新しいコミュニケーション・ツールが登場し、そのどれもがパーソナル化していく中で、人はそれらを器用に使い分け、「何かを介して」言葉を伝えることに実に達者になりながら、もしかしたらその一方で、「何も介せずに」話すことはとんでもなくヘタクソになってしまっているのかもしれません。
 「私たちは何も介さずに話すことを、1から勉強し直さなければならないのかもしれない」
 言葉であふれかえる「ひきこもり」のホームページを見るたびに、僕はそう思わされます。
 その昔はなんでもないことだった「何も介さずに」話すことが、今は意外に難しい。ましてや、器用な小手先の言葉でもなく、借り物の言葉でもない、「自分の言葉」で話すとなると、それはますます難しい。
 「私たちの、いったいどれだけの人が、自分の言葉で話せているのだろう……?」
 もしかしたら、インターネットで尽きることなく言葉を繰り出し続けている「ひきこもり」の人たちは、きっとどこかにある「自分の言葉」を、必死に探し続けているのかもしれません。 
 本日はご来場いただきありがとうございます。
 この『コネクト』という芝居が、「あなたと何か」を接続するささやかなきっかけになれれば、と余計なお世話ながら、心からそう思います。

2002年12月 古城十忍




  巨大なキューブの中に、巨大な球が、ぽっかり浮いている。
キューブは壁や床、天井で四角く囲われたダイニング・リビングで、そこそこの裕福感が漂うが、閉塞感はそれ以上に強く、それぞれエントランス、キッチン、2階へと続くわずかばかりの開口は、まるで空気穴のよう。
球は部屋のようであるが、入り口が定かでなく、境界そのものもあやふやで、まるで蜃気楼のごとく中空に忽然と出現したグローブ・ジャングル(=G・J)を思わせる。
G・Jの中にはパソコンが1台、天井からは卓上時計がぶら下げられて宙に浮いている。




日比野 「僕はいつも砂漠が好きでした。砂山の上に腰を下ろす。なんにも見えません。なんにも聞こえません。だけれど何かが、ひっそりと光っているのです」 わかるか? あるんだぞ砂漠にも光るものが。きらりと光ってるんだ。それが何だかわかるか? そいつはこうも言うんだ。 「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ」 「そうだよ、家でも星でも砂漠でも、その美しいところは目に見えないのさ」



日比野、我に返ったように足下のアルバムが目に留まり1冊手に取ってみるが、中には1枚の写真もなくて、日比野は何事もなかったかのようにアルバムを放り出す……。


アイデンテ> じゃあ出れるの〔ちっち〕さん? 電話でさえ躊躇するのに、自分の部屋から出ていける?
れぞんでとる> 〔アイデンテ〕さん、その瘡蓋はがすと血が止まらなくなっちゃうよ
   静寂……。
ままん> あたしたち、一生このままなのかなぁ………


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