報道は誰のためにあるのか? 報道の自由はどこまで 個人のプライバシーに踏み込めるのか? 個人情報という「顔」は捨てられるのか? |
名前を変える、つまり改名するのは相当に難しいらしいが、「名前を捨てる」ことは可能だろうか。役所に行って「名前、いりません」と言ってみたら、どんな反応が返ってくるだろう。まぁそれはたぶん不可能と言われるだろうから、じゃあ「 」に改名します。と言うのはどうだろう。空白であること、何もないこと、それが私の名前です、と。もし万が一、名前を捨てられたら、それは同時に戸籍を捨てることになり、日本人でなくなることを意味するのだろうか。日本人であることをやめ、敢えてあるとすれば「 」という名前の私。それも悪くないと思うのは私だけだろうか。でも実際には、戸籍が売買されたりする現実もあるらしいから、実は名前を捨てた人はいくらでもいるのではないだろうか。反対に、「実名報道」が繰り返し問題になるメディアの世界では、例えば新聞の場合、どんなスクープ記事だろうと記事を書いた記者の名前は表に出ないわけだが、彼らの中には「俺の名前を出せ、俺には名前があるんだ」と思う人はいないのだろうか。しばしば匿名性が問題になるインターネットの世界も、名前がないことが前提として成り立っているように思えるのだが、名前を出すことがもし義務づけられたら、インターネット世界はどのように変貌(崩壊?)していくのだろうか。個人情報保護法の立法化は間近。住民基本台帳法の施行も目の前。そんなご時世に、「名前を捨てたい人」と「名前を出したい人」が織りなす芝居はけっこう面白いのではないか。それが『その男、顔のない』という一跡二跳の今度の芝居。新作です。 古城十忍(ちなみにこれはペン・ネーム、戸籍には「十忍」が別の漢字で載っています。) |
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制作:岸本 匡史