声しか見えない


老人性痴呆症をテーマに、舞台右は現実、左は記憶の部屋として展開し、介護する側の視点ではなく、惚けていく老人本人の意識変化そのものを劇化。

 

舞台には二つの部屋がある。

右の部屋には木製のささやかな家具。どれも使いこなされて色あせているが、質素な生活がうかがい知れて、落ち着いた印象。唯一パソコンだけが異彩を放っている。 短い廊下でつながれた、左の部屋は壁が真っ白。そして大中小さまざまの、真っ白い箱がうず高く、その数おびただしく、塔のように危うげに積み上げられている。ほかには何もない。本当に何もない。

ストーリー
「ヤブさん」の愛称で親しまれたきた元新聞記者の薮内育夫は、妻に先立たれ60代半ばで独り暮らし。一人娘の佐和子はかつてのヤブさんの部下・松木と結婚し子供もいるが、たまにしか顔を見せず、日常的な生活はホームヘルパーの助けを借りて暮らしている。 やがてヤブさんの目に異変が起こる。右目で見える像と左目で見える像がブレ始め、二つの像はとうとう独立してしまったのだ……。



「呆け脳」をめぐる物語
 人間の力では想像も及ばない、まるで計り知れない世界。その最たるものが三つあると僕は思っています。それは「宇宙」と「深海」、そして「人間の脳」です。
  いずれも少しずつ解明されつつあるとはいえ、まだまだ微々たるものにすぎず、宇宙も深海も人間の脳も、そのことに思いを巡らせ始めると、わからないことの多さに、かなりたじろぎます。さながら不思議の森に迷い込み、見渡した木々の一本一本に、おびただしい「?」「?」「?」の実がぶら下がっている感じです。そして「?」の実を一つもぎとろうするたびに、何とも底知れぬ深みに足を絡めとられそうになるのです。

 さて、今回の芝居は、「人間の脳をめぐる物語」です。
  どんな脳をめぐる物語かというと、ずばり「痴呆性老人症」です。いわゆる「呆けていく人間」の脳は、どのようなプロセスを経て、どのように変わっていくのか。「呆け=人格崩壊」との見方もあるようですが、果たして本当にそうなのか。そのことを探りたいと思いました。
  「痴呆」がテーマの芝居だというと、得てして「介護の大変さ」「振り回される家族」に焦点が当てられがちですが、それではどうもありきたりすぎます。どうも一跡二跳らしからぬと言いますか、「演劇的」ではありません。それでなんとか「呆けていく本人」の立場で、その心模様を描けないものかと、大胆なことを考えることにしました。
  ですが幸いにして、僕の友人には老人性にしろアルツハイマーにしろ、「呆けてしまった人」はまだいません。残念ながら、「一度呆けて、呆けから帰還した人」もいません。なので、着想は大胆とはいえ、頼れるものは我が身のひ弱な想像力しかなく、ひたすら想像力というより妄想力をフル稼働して芝居にしていくしかなかったのです。

 こうした目論みを持って取り組み始めたので、今回の芝居はいっぷう変わった舞台美術で繰り広げられます。
  観客席から見て、右側はパソコンのある木製の机があり、ちゃぶ台がある日常的な部屋(具象の部屋)。左側は真っ白で奇妙なオブジェが構築された無機的な部屋(抽象の部屋)。
  芝居はこの二つの部屋を、行ったり来たりしながら、または同時に進行しながら、展開していきます。普通はあり得ない組み合わせですから、摩訶不思議なムードは満点です。言ってみれば、たわわな「?」の実がいくつもいくつも目の前に出されてくる。そんな芝居になったら、それはそれで素敵だなと考えたわけです。「具象と抽象の融合」がうまくいったかどうか、ご覧いただければ幸いです。

古城十忍
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劇団一跡二跳

制作:岸本 匡史