ついにロシアがウクライナに仕掛けた戦争にしても、大半のロシア国民のあずかり知らぬところで開戦は決められ、予想に反して膠着状態に陥りつつある今、停戦交渉が何度行われても、大事なことは交渉のそのあとで、夜な夜な一人か二人の手によって決められていくのだろう。
もちろんこれは、何も政治の世界に限ったことではない。一般企業でもそうだろうし、学校など教育の世界でもたぶんそう。町内会とかマンションの管理組合とか、もっと小さなコミュニティーであっても、たぶん五十歩百歩なのだろう。
未だに後を絶たないSNSによるバッシングも恐らく夜な夜な行われている気がする。もちろん、あくまで私の勝手なイメージではあるけれど、――ある日突然、自分が誹謗中傷の対象となって、あらぬ攻撃をこれでもかと受けている。は? 思い当たる節がない。だが悪意のメッセージは瞬く間に膨れあがる。なんだ、これ。どういうことだ? 一夜にして自分を取り巻く世界が変わったのだと愕然とする。
こうして考えてみると、「歴史は夜つくられる」。この「夜」には、「知らないところで」、もっと端的に言えば、「どこか隠されたところで」「秘密裏に」という意味が込められているのではないかと思えてくる。
……などと妄想を掻き立てながら偉そうに書いていて、ふと気になって「歴史は夜つくられる」、この格言めいた言葉の出典を調べてみたら……なんとこれ、格言でも何でもなく、映画のタイトルだった。ええっ、マジで?
ハイ、間違いないですね。しかも社会派ドラマとはまったく無縁の、ベタベタの恋愛映画のようです。
あらま、びっくり。私の妄想のスタート地点がガラガラと音を立てて崩れていったというわけです。ちなみに、この映画の公開は1937年。今から85年も前のことでした。
いやいや、たとえそうでも映画のタイトルが独り歩きして、長い年月を経るうちに別の意味を持つようになった、いや、意味づけがなくても、単にこのタイトルからどんな妄想をしたっていいじゃないか、「なんか文句ある?」と開き直ることだって許されるだろ?
などといきがって、なおも調べてみたら、『週刊文春』にちょくちょく「社会派」を前面に押し出した写真を提供しているカメラマンの宮嶋茂樹さんも昨年、『歴史は夜作られる』というタイトルで個展を開き、写真集も出していた……。
宮嶋カメラマン、この言葉の出どころが映画のタイトルだと知っていながら、敢えて社会派写真集に同じタイトルを付けたのでしょうか。どうも私にはそうは思えないのですが、別にいいじゃん、どっちだって。根拠となる言葉の意味合いが違っても、そこから何を妄想するかは自由だよ。たとえそれが妄想で終わらず、多くの人に届けられることになっても、それはそれ。「別にノープロブレムなんじゃない?」。大抵の人はそう思うのでしょうか?
いやはや、なんだか私は、根拠とした言葉の意味をきちんと調べもせず、妄想だけを張り切って働かせて「勝手な繰り言」を並べ立てる「SNSバッシング野郎」に私自身がなってしまった気がしてきて、予想外の展開に、しょんぼり、です……。
怖いですね。悪意はないのに、思い込みだけで発信すると、間違った意味を伝えてしまうことにもなりかねない。いやはや、身に染みました。
演出家としては今回の「お触れ書き」で、「大事なこと(トンデモナイこと)はいつも、隠されたところで動き出し、秘密裏に決定が行われ、それが明るみに出たときには、もはや取り返しがつかない。恐ろしいことが起きてしまうことだってある。こうした社会って怖くないですか?」というようなことを書きたかったわけですが、結局は余計な遠回りをしただけ、で終わってしまいましたかね。……。
いえでも、遠回りしようと思ったのにも実は理由があります。こんなことを書くと身も蓋もないかもしれませんが、「チラシに書いたこと以外のことは一切、書きたくない」、そう思っていたのです。
つまり、「隠されたところで、秘密裏に」芝居づくりを進め、本番になって初めて、「なるほど、こういう物語で、こんなことを考えてほしかったわけね」ということが観客に示される。だって、作品そのもの以上に何かを語るなんて言い訳じゃん。
てなことを今思いつきましたが、はい、これも何の説得力もない。というわけで、『民衆が敵』では「隠されているもの」の正体をきっちり描くつもりです。