白幕の外れた左の部屋に藪内が独り。 右目に眼帯をして、うず高い、危うげな箱の塔を見あげている。 首の角度を変えたり、立ち位置を変えたりしてじっと見ている。 その動作、亀のようにのろくなっている……。 右の部屋に若背広男、テーブルタップを持って現れ、パソコンを繋いであったそれと交換する。 それから左の部屋に行って、顔をのぞかせて−。 |
若背広男 | 何してんすか? |
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藪内 | あ……。 |
若背広男 | パソコン、やっぱしコードのほうがイカれちゃってたみたいで。新しいのに替えときましたから。 |
藪内 | すぐ使えるのか? |
若背広男 | 大丈夫っすよ。あと台所の棚。ぐらぐらしてたのも、もう平気っすから。(室内を見回し)どうしてこっち、何にも置かないんすか? |
藪内 | あ……? |
若背広男 | いやだから、こっちの部屋。何にもないじゃないすか。 |
藪内 | ああ。集中力だよ。 |
若背広男 | 集中力? |
藪内 | (右の部屋に向かいつつ)よく自分の机の周りに、本だの資料だの山のように積み上げて、それが新聞記者っぽくていいなどとぬかす奴がいるが、あれはダメだな。見聞きしたことは漏らさず(頭を指し)ここに入れる。でなけりゃ、一人前のブンヤにはなれんよ。 |
若背広男 | はぁ、そういうもんすか。 |
藪内 | ブンヤといえば、弁当だけどな。 |
若背広男 | あ、鳥の唐揚、やっぱ脂っぽすぎました? |
藪内 | ブンヤはのり弁だ。 |
若背広男 | え? そんな決まり、あるんすか? |
藪内 | 事件はいつ起こるって決まってるわけじゃないんだぞ。あんな重箱のようなの持って走れるか? |
若背広男 | なんで走るんすか? |
藪内 | 走りながら食うんだよ。大事件に出くわしてみろ、今度いつメシ食えるか分からないだろ? |
若背広男 | なるほど。 |
藪内 | お前もまだまだ半人前だな。 |
若背広男 | 勉強になります。 |
電話が鳴る。 すでに藪内とともに右の部屋に来ていた若背広男、バッグから携帯電話を出すと「繋ぎ」に出て−。 |
若背広男 | はい。ええ、こっちはもうだいたい……え? 掛橋さん、トラブっちゃってんすか? どこ? ああ、あの人、ワガママだから。……ええ、俺のほうは時間通りに。はい、分かりました。(切る) |
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藪内がパソコンの前で気ぜわしげに動いていて−。 |
若背広男 | どうしたんすか? |
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藪内 | やっぱり壊れてるぞ、これ。ほんとにコードが悪かったのか? |
若背広男、黙って電源をONにするとパソコンは立ちあがる。 見ていた藪内と若背広男、同時に「シシシシシ……」と笑う。 |
若背広男 | じゃ俺、そろそろ行きますんで。 |
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藪内 | どうせ簡単なヒマネタなんだろ? |
若背広男 | 何すか、ヒマネタって。 |
藪内 | 突発的な事件ネタじゃないってことだよ。お前、ほんとにブンヤか? |
若背広男 | 今後ともよろしくご指導ください。 |
藪内 | はよ行け。 |
若背広男 | ……突発的じゃない、暇な時のネタでヒマネタ……なるほど……。 |
一人で納得しつつ若背広男は、バッグを持って部屋を後にする。 藪内はキーを打ち始めるものの、打っては画面をのぞきこむという動作を繰り返す。なかなか思うように打てないらしい……。 ショルダーバッグを肩に背広男が現れて−。 |
背広男 | 片目だとなかなか打ちづらいっしょ? |
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藪内 | あ……。(振り向く) |
背広男 | また医者行ったんしょお? やっぱ目のせいじゃないって言われたんすか? |
藪内 | ………。(半ばあっけにとられている) |
背広男 | ヤブさん? |
藪内 | ……ほんとに簡単なヒマネタだったんだな。 |
背広男 | いやこれからまた記者クラブ行くんすけどね、今日はいいもの持ってきたんすよ……つって持ってきてないよ。車ン中、置きっぱなしだよ。ちょっ取ってきますね。 |
背広男、部屋を出ていく。 藪内は眼帯を外して片手で交互に目を覆って辺りを見てみる。 そこへ背広男が戻ってくるが、その輪郭は大きくズレていて、若背広男とのW背広男になっている……。 |
背広男 | なんか俺、近ごろボケちゃって。やっぱ、こっちでした。ヤブさん、そのバッグの中。 |
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藪内 | ………。(呆然) |
背広男 | どうしたんすか? |
藪内 | え? |
背広男 | そン中入ってますから。 |
藪内 | あ、ああ……。 |
藪内、言われるままにバッグを開けて中から双眼鏡を取り出す。 |
背広男 | それそれ、それっす。それでのぞけば、ズレ具合がはっきり自覚できんじゃないかと思って。 |
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藪内 | まぁ、そうかもしれないけど……(と、正座して怪訝にW背広男を見る) |
背広男 | 今両目で見て、相当ズレてんすか? |
藪内 | (男を見たまま)相当フツーじゃないかもしれない。 |
背広男 | 双眼鏡で見たら? |
藪内 | (双眼鏡で男をのぞいて)やっぱりフツーじゃないかもしれない。 |
背広男 | どんな具合なんすか? 右にも左にもズレた俺がいるんすか? まさか右と左それぞれに一人ずつ俺がいるとか?[ On Line Theater ] |
藪内 | (再度のぞき)………。(そのままぐっと頭を後ろに引いて)………。(さらに引こうとして後ろに倒れそうになる) |
背広男 | 俺が下がりますよ。(下がる) |
藪内 | もうちょい。 |
背広男 | (下がって)まだっすか? |
藪内 | もうちょい。 |
背広男 | (下がって)これ以上下がると俺、部屋出ちゃうんすけど。 |
藪内 | もうちょ……(突然、双眼鏡を外して呆然) |
背広男 | どうしたんすか? |
藪内 | (呆然としたまま)……目が……痛い。 |
背広男 | え? |
藪内 | (呆然としたまま)目ぇ…の奥がじんじん…する。すごい…熱い……。 |
背広男 | なんで? 冷やします? |
藪内 | 熱い……。 |
背広男 | と、とりあえず眼帯、眼帯してください。今濡れタオル持ってきますから。 |
W背広男は眼帯を藪内に渡して、急いで部屋を出ていく。 藪内は半ば呆然としたまま、眼帯を右目に。 濡れタオルを持って戻ってくると、背広男の姿はシングルに戻っていて−。 |
背広男 | 大丈夫っすか? とりあえず冷やしたほうが、どの辺すか? 前? 後ろ? |
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藪内 | 上。 |
背広男 | 上? ここっすか?(タオルをあてる) |
藪内 | ………。(ゆっくりと手を上げてタオルを自分で押さえる) |
背広男 | なんか、なんか薬、飲みます? |
藪内 | 大丈夫。……納まったよ。 |
背広男 | 納まった? |
藪内 | ……うん、(タオルを頭から外し)大丈夫。 |
背広男 | ………。(ふう、と大きく息を吐く) |
藪内 | すまんな。 |
背広男 | いえいえ俺こそ。すいません、変なことさせちゃったから。 |
藪内 | 一つ、気づいた。 |
背広男 | 何すか? |
藪内 | 今までは全部の輪郭がブレてたんだが、今初めて人間だけが大きくズレた。 |
背広男 | 人間だけ? なんでまた? |
藪内 | 知らないよ、知らないけどそう見えたんだよ。 |
背広男 | ………。 |
藪内 | 見えたんだよ。 |
背広男 | ……俺、あれから調べたんすけどね。よく分かんないっすけどそういうの、脳の問題らしいっすよ。 |
藪内 | ノオ? |
背広男 | みそっすよ、脳みそ。あのほら、斜視ってあるじゃないすか、ガチャ目とか言ったりする。 |
藪内 | ああ、そういうの、昔誰か近所にいたな。 |
背広男 | あれは目そのものがズレてるわけっすから、当然ズレてるほうの視力が弱くなるんすけど、悪いのは実は目じゃないらしいんすよ。 |
藪内 | ガチャ目で視力が落ちるのは目のせいだろう? |
背広男 | 脳のせいなんすよ、悪いのは脳なんだって。 |
藪内 | ……脳が悪い? |
背広男 | 目そのものは全然悪くないんです、ちゃんとモノは見えてんすから。 |
藪内 | ………。 |
背広男 | なんでも脳には右目で見た情報を処理する領域と、左で見たのを処理する領域と二つあるそうなんすね。で、左がガチャ目だと左から入ってくる情報が少ないわけっしょ? そうすっと脳の中で、右目の領域があいてる左目の領域をどんどん占領しちゃうってわけなんすよ。 |
藪内 | ………。 |
背広男 | 要するに右と左がズレてて、見えるものが違ってると、都合の悪いほうが消されちゃうんすね。 |
藪内 | 消されちゃう? |
突然、左の箱の塔から一つの箱が落ちる……。 藪内は不意にびくっとしたかのように、あらぬ方向に振り返る。[ On Line Theater ] |
背広男 | どうかしました? |
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藪内 | あ、いや……。 |
背広男 | だから脳の中では四六時中、右と左が互いに消されまいとして戦ってるってことらしいっすよ。 |
藪内 | 一つ、聞いていいか? |
背広男 | どうぞどうぞ。 |
藪内 | さっきからずうっと気になってんだけど。 |
背広男 | どうぞ、何すか? |
藪内 | あんた、誰? |
背広男 | ………。(あっけにとられ男を見る) |
藪内 | (眼帯を外して)どこの新聞社の人? |
背広男 | ………。(じっと見ている) |
藪内 | 朝日? |
背広男 | 毎朝っすよ、毎朝新聞社会部。 |
藪内 | え? 俺も毎朝だよ、毎朝の社会部。 |
背広男 | 奇遇っすねぇ。(握手) |
藪内 | (応じて)……ほんとは誰? |
背広男 | ………。(動きが止まって藪内を見る) |
背広男、手を外して奇を取り直すように室内を見回してから−。 |
背広男 | ヤブさん、ちゃんと見えてます? |
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藪内 | 見えてるよ。 |
背広男 | だって人間だけ大きくズレて見えるって……? |
藪内 | 一つになったんだよ。 |
背広男 | え? ブレはなくなったんすか……? |
藪内 | ちゃんと見えてる。全然ズレてない。 |
背広男は双眼鏡はそのままに、いぶかしがりながらショルダーバッグを持って部屋を出ていく。 藪内はパソコンに向かってぼんやり……。 再び左の部屋の塔から音を立てて箱がいくつか落ちる……。 藪内、今度は無反応……。 辺りが少しだけ、暗く沈んでいく……。 前掛け女がコンビニの袋を持って現れて−。 |
前掛け女 | ごめんなさい、遅くなっちゃって。 |
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藪内 | あ……。(振り向く) |
前掛け女 | (袋を示し)買ってきましたよ、のり弁。やっぱり新聞記者はコンビニでなくっちゃダメよね。 |
藪内 | もうそんな時間か? |
前掛け女 | ここんとこずっと根詰めて書いてるから、時間の感覚ないんでしょう? |
藪内 | そうなんだよ。あれ、今日何曜日だろうってすぐ分からなくなったりするし。 |
前掛け女 | よくありますよ、そういうこと。(気づいて)ああっ? |
藪内 | 何だ? |
前掛け女 | 眼帯、外しちゃってていいんですかァ? |
藪内 | いいんだ、だいぶ慣れたし。 |
前掛け女 | (手を振ってみせ)あたし、まだブレて見えます? |
藪内 | いやちゃんと見えてるよ。 |
前掛け女 | え? 治ったんですか? |
藪内 | ってことだな。 |
前掛け女 | ホントに? よかったじゃないですか。 |
藪内 | ン……。 |
前掛け女 | じゃあたしも張り切ってやらなくっちゃ。お風呂、入りますよね? |
藪内 | あ? ああ。(腰をあげる) |
前掛け女 | いやまだ。今から入れるから。 |
藪内 | 隣に行くんだよ。 |
前掛け女 | あぁ、ごめんなさい。すぐ入れますから。 |
前掛け女は置かれていたタオルを持って部屋を出ていく。 藪内はまた亀のような歩みで左の部屋へ……。 すぐに前掛け女はテーブル拭きを持って戻ってきて−。 |
前掛け女 | 双眼鏡、誰が持ってきたんですか? |
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藪内 | え? |
前掛け女 | 双眼鏡。 |
藪内 | あぁ、松木だよ。 |
前掛け女 | (拭きつつ)松木さんいらっしゃったんですか? 奥さんと一緒に? |
すでに藪内は左の部屋。 前掛け女はその場で伸びあがって様子を見るが、返事がないので首をすくめて台を拭き、袋から弁当を出して部屋を出ていく。 藪内は左の部屋で落ちている箱をぼんやり見ている……。 前掛け女が左の部屋に顔をのぞかせて−。 |
前掛け女 | すみません。 |
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藪内 | あ……? |
前掛け女 | ちょっと買物いってきますね。いったんすぐ戻りますから。 |
藪内 | ああ、分かった。 |
前掛け女、足早に出ていく。 藪内は落ちている箱を集めてそれだけを重ね始める……。 それからその丸ごと塔に重ねようとするが、どこに置くか迷いつつも試みて、うまくいかず、結局床に放り出してしまう……。 それからまた箱の塔と放り出した箱を不安げに見る……。 右の部屋に、大きな紙袋を提げた紙袋女がやってくる。 弁当が目にとまって怪訝な顔で手に取ってまた置く。 それから紙袋を下に置くと室内を見回してから出て、左の部屋に顔をのぞかせ、藪内を見つけるや−。 |
紙袋女 | 空気、眺めてるの? |
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藪内 | あ……。(気づく) |
紙袋女 | 何やってんですか、ぼんやりしちゃって。(手招きして)ちょっとこっち、来てみてよ。 |
言うなり紙袋女は右の部屋に戻って、紙袋から包みを取り出して広げ始め、ゆっくりやってくる藪内に−。 |
紙袋女 | 熊本に住む友達がね、クール宅急便で送ってくれたのよ。馬刺。 |
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藪内 | え? |
紙袋女 | ばァさァし。 |
藪内 | 馬刺? |
紙袋女 | あの人ったらおかしいのよ。具合が悪いって言ったら「そいはね、血ィが足りンと。血ィばたくさんとらんばダメばい」って。 |
藪内 | それで馬刺。 |
紙袋女 | ってのもよく分かンないんだけど、さすが火の国阿蘇の国って感じよね。 |
藪内 | 俺も支局にいた頃はよく食べたなぁ。 |
紙袋女 | 3年いたのよね? |
藪内 | いや、もっと長かったんじゃないですか。 |
紙袋女 | ねぇこれ、食べてみて。味は保証するから。 |
藪内 | え? いただいちゃっていいんですか? |
紙袋女 | ねぇえ。 |
藪内 | はい。 |
紙袋女 | なかなか顔見せないからって、そんな他人行儀な言い方しないで。 |
藪内 | は? |
紙袋女 | ほんとは話したいこといっぱいあるのよ。最近いろいろうまくいってないの少しは聞いてるんでしょ? 相談しようかなぁって思ってたのに、ちくちく嫌み言われてるみたいでイヤだわ、なんだか。 |
藪内 | 別に嫌みのつもりは…… |
紙袋女 | だって昨日のはひどかったわよ、あたしのこと里子だなんて言うんだもの。 |
藪内 | 里子? |
紙袋女 | あたし、そんなに似てきた? |
藪内 | 里子は今、買い物に出てますけど。 |
紙袋女 | ! |
藪内 | すぐ戻ると思いますけど、里子のお知り合いですか? |
紙袋女 | ……冗談でしょう?[ On Line Theater ] |
藪内 | 何が…ですか? |
紙袋女 | あたしが誰だか分からないの? |
藪内 | 取材か何かで……? |
紙袋女 | ふざけないで! |
藪内 | (驚いて)……どうしたんですか? |
紙袋女 | いい加減にしてよ! 人がせっかく心配して来てやってるのに! |
藪内は訳が分からず、ただ驚いて目を見張るのみ……。 そこへ前掛け女、弾かれたように飛び込んで来て−。 |
前掛け女 | どうしたんですか? 何があったんですか? |
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紙袋女 | (包み紙や紙袋などを投げつけながら)どうしてそうなの! どうしてそうなのよっ! |
前掛け女 | 落ち着いて下さい……! |
紙袋女 | 人の気も知らないで! |
前掛け女 | 奥さん、落ち着いて、待って……! |
紙袋女 | あたしの気持ちなんていつも蚊帳の外!(弁当を投げつける)どうしてそういい加減なのよっ!(馬刺を投げつける) |
言い捨てて紙袋女、激しい足取りで部屋を出ていく。 |
前掛け女 | 待ってください、奥さん。(藪内に)大丈夫、大丈夫ですから。 |
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弁当・馬刺などを急いで拾い集めてテーブルに載せると、前掛け女は紙袋女を追って出ていく。 ただうろたえて、驚きおののく藪内、ハァハァと荒い息遣い……。 その呼吸、みるみる激しくなって、やがて泣く……。 藪内、涙が止まらない……。 どうしようもなく止まらない……。 微かな月光に照らし出されているかのような箱の塔。 流れる雲が月光を遮るように、急速に闇。 |