右の部屋に藪内が独り。 パソコンに向かってフロッピーを入れようとするが、なかなか叶わず、次第に苛立ちが高じてくる……。 耳にピアスをした少年のような男が、両手に牛乳の入ったコップを持って現れて−。 |
ピアス男 | 何やってんだよ? |
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藪内 | 入らないんだよ、これがな、ここに入るはずなんだけどな。 |
ピアス男 | 持って。(コップを一つ突き出す) |
藪内 | あ……。 |
ピアス男 | 飲めば? |
藪内 | ああ。(受け取る) |
ピアス男 | (フロッピーを取り、そのラベルを読んで)「KING」。何これ? これタイトルなわけ? |
藪内 | 王様、という意味だぞ。 |
ピアス男 | 知ってるよ、それくらい。 |
藪内 | 「私はこの国の王である」。 |
ピアス男 | こぼれるよ。 |
藪内 | ああ。(両手で持ち)「私はこの国の王である。そして、私はこの国の僕である」。いい言葉だろう? |
ピアス男 | なんだ、それ? そんな訳分かんないの書いてんの? |
藪内 | これは奥が深いんだぞ。前読んだ本に書いてあったんだけどな、この、国というのが曲者で……(はっとして)あ……! |
ピアス男 | 何? |
藪内 | 何でもない。(と、牛乳をごくごく飲む) |
ピアス男 | なんだ、喉乾いてたんじゃないかよ。 |
藪内 | (飲むのをやめ)マズいな。[ On Line Theater ] |
ピアス男 | (コップを奪って)じゃ飲むなよ。(フロッピーを差し込みつつ)いい? これは、ここに、こっち向きに入れんの。分かった? |
藪内 | 知ってるよ、それくらい。 |
ピアス男 | (ムッと)じゃ聞くなよ。 |
ピアス男、あきれて藪内から離れると、牛乳を飲みつつバッグからCDウォークマンを取り出し始める。 藪内、パソコンに向かうが、ピアス男の様子が気になって仕方がない。時に憐れみの目で見たりしてしていると−。 |
ピアス男 | あ、そうだ。あとでオフクロが来るようなこと言ってたから。 |
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藪内 | オフクロ? |
ピアス男 | なんか持ってくものがあるって言ってた。 |
藪内 | ………? |
コンビニの袋を提げた若背広男がやってきて−。 |
若背広男 | 申し訳ない、申し訳ない。 |
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ピアス男 | 遅いよ。 |
若背広男 | いやぁ、いてくれて助かったよ。ヤブさん、遅くなってすみません。 |
ピアス男 | もう帰っていい? |
若背広男 | OKOK、あとは大丈夫。 |
ピアス男 | さっき電話あったよ、彼女から。 |
若背広男 | 彼女? |
ピアス男 | 掛橋さん。デキてんでしょ? |
若背広男 | (小突いて)バカ、何言ってンだ。(藪内に)ヤブさん、なんか変わったことなかったすか? |
ピアス男 | じゃ帰るよ。 |
若背広男 | おぅ、悪かった。(小声で)遅れたこと、オフクロさんには内緒な。 |
ピアス男が帰っていき、若背広男は弁当を出しながら−。 |
若背広男 | ビール買おうかなぁってさんざん迷ってたんすけど、やめちゃいました。ヤブさん、お茶でいいっすよね? |
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藪内 | それがたった今、良平に牛乳を飲まされてな。 |
若背広男 | 良平……?(と、ピアス男の去ったほうを見る) |
藪内 | 今出てった、ほら、向かいの三井田ンとこの。 |
若背広男 | あっああ……あの。ほんとに良平君でしたぁ? |
藪内 | そうだよ。さっきつい口を滑らせそうになってな、肝臓のこと。 |
若背広男 | 何すか、肝臓のことって。 |
藪内 | 前話したろ? 肝臓移植しなきゃ助からないって。 |
若背広男 | あ、そうだ、聞きました聞きました。で何か言ったんすか? |
藪内 | 言えないよ、不憫で。不憫だろ? だから牛乳飲んでごまかしたよ。 |
若背広男 | そうっすか……あれ?(ポケットを探り)あれ……? |
藪内 | どうした? |
若背広男 | 忘れてきちゃいました、財布。 |
藪内 | どこに? |
若背広男 | ちょっといいすか、すぐ戻ってきますんで。 |
藪内 | しょうがないなぁ。 |
若背広男、急いで部屋を後にする。 残った藪内、なんとなく辺りを見回してパソコンが目に止まる。 だがそれも束の間、不意に腰を上げて部屋を出ていこうとすると、どこからか女の声が聞こえてきて−。 |
女の声 | どこ行くんですか? |
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藪内 | あ……。(動きが止まる) |
女の声 | 遅くなっちゃったけど夕飯、すぐ作りますから。 |
藪内 | ちょっとションベン。 |
女の声 | ビールでも飲んでてくださいよ。 |
藪内 | 余計マズいだろ? |
女の声 | ほんとにすぐですから。 |
藪内 | 張ってンだよ、腹。パンパンになってっから。 |
女の声 | 食べたくないんですか? |
藪内 | いや食うよ。食うけどその前にすっきりションベン…… |
女の声 | (声に異変)お父さん? |
藪内 | お父さん? |
女の声 | ヤだ、そんなとこで寝ないで。 |
藪内 | なんだオヤジに言ってたのか? |
女の声 | お父さん……? |
藪内 | (不安)どうした……? |
女の声 | お父さん……! |
藪内 | (不安)おい。 |
女の声 | お父……! |
突然、世界を劈くほどの悲鳴。 それは男性の悲鳴である。 思わずその手で耳を塞いだ藪内、目をぱちくりぱちくりと動かしながら辺りをゆっくりと見回す……。 忍び寄るように静寂……。 藪内がおののくように手を外すと、囁くような声……。 目には遠く、葬送の列が見えてくる……。 喪に服した女のすすり泣き、虚ろな目の遺族が果てもなく続くかのように見える葬送の列……。 囁くようなその声、次第にはっきりと耳に届いてきて−。[ On Line Theater ] |
囁き声 | 「……さんちのおじいちゃん、亡くなったんだってね」 「聞いたわよ。回覧はまだ回ってきてないけど」 「こういう言い方しちゃナンだけど奥さん、やっと肩の荷、降ろせるわよ」 「よくやってたと思うわよ、私」 「よくやってたわよ。ご主人、仕事仕事で家のことほったらかしだし、一人で切り回してたようなもんでしょう?」 「死んだ人、悪く言う気はないけど誰だってホッとするわよ」 「そうよ、おじいちゃん亡くなったって聞いて、私もホッとしたもの」 「なんで他人のあんたがホッとすんのよ?」 「だって相当ボケちゃってたらしいじゃない」 「そうそう。かなりボケが進んでたみたいよ。夜な夜な徘徊してたって」 「おじいちゃんだって正気だったら、きっと早く死にたいって、そう願ってたんじゃないの?」 「ほんとよ。早く死んであげなきゃ、周りがかわいそすぎたもの」 「死んでホッとできたわよ」 「そういうもんよね」 「ホッとするわよ」 「ちょっと。奥さん、出てきたわよ」 「このたびはとんだご愁傷さまで……」 |
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声たち、遠のいていく……。 葬送の列も、もう藪内の視界にない……。 へたりこんで囁く声に耳を奪われていた藪内、まだ何か気配を感じ取ろうと辺りを窺っていたが、恐る恐る伸びあがって視力検査のような動作で室内を見回す……。 それから不意に腰をあげて部屋を出て行こうとすると、若背広男がコンビニ袋を手に戻ってきて−。 |
若背広男 | どこ行くんすか? |
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藪内 | あ……? |
若背広男 | 思いきって奮発しちゃいました、ビール。(見せる) |
藪内 | ビール……? |
若背広男 | いいじゃないっすか、たまには息ぬきってことで。 |
藪内 | 松木。 |
若背広男 | はい。 |
藪内 | ビールってなんかマズいんじゃなかったか? |
若背広男 | マズくないっすよ、これ。すこぶる冷えてますから。 |
藪内 | 俺今、どっか行こうとしてなかったか? |
若背広男 | そういえば……そんな素振りしてましたね。(弁当を食べ始める) |
藪内 | それどこだ? |
若背広男 | (食べつつ)ンなの俺に聞かれたって知りませんよ。 |
藪内 | ビールがマズいことになんか関係あったんだよ。 |
若背広男 | (食べつつ)何すか、それ。 |
藪内 | (はっと)あ……! そうか……! |
若背広男 | (食べつつ)思い出しました? |
藪内 | 松木。 |
若背広男 | はい。 |
藪内 | 飯食ってる場合じゃないぞ。 |
若背広男 | すいません。(置く) |
藪内 | こないだ耄碌じいさんがぽっくり死んだろ? |
若背広男 | 耄碌じいさん? |
藪内 | 葬式あったじゃないか。だから向かいの。 |
若背広男 | ああ、三井田の耄碌じいさん。 |
藪内 | そうだ、三井田だよ。三井田って言うんだぞ。 |
若背広男 | 分かりましたよ。その耄碌じいさんがどうかしたんすか? |
藪内 | あれ、他殺だ。 |
若背広男 | マジっすか? |
藪内 | 犯人は嫁だよ、嫁の安江。 |
若背広男 | 奥さんが? |
藪内 | 思い出したんだよ、安江さんが怪しげな声でお父さん、お父さんって連発しててな、その後に悲鳴が聞こえたんだよ、男の。 |
若背広男 | 耄碌じいさんの断末魔の声、聞いたんすか? |
藪内 | 聞いたんだよ、俺が。声を。安江さんの。あれは殺意に満ちた声だった。 |
若背広男 | ヤブさんがそう言うんなら間違いないっすね。 |
藪内 | じゃ松木、書け。 |
若背広男 | 書けって何をすか? |
藪内 | スクープだろ。新聞記者が記事書かなくてどうすんだよ? |
若背広男 | 俺が書くんすか? |
藪内 | いい加減に一人前になってくれなきゃあ。ブンヤは夜討ち朝駆け、ンでもって書いてなんぼ…… |
若背広男 | スクープとってなんぼの商売。 |
藪内 | 覚えてんじゃないか。 |
若背広男 | ヤブさんのそれ、もう耳にタコっすから。 |
藪内 | だったら早く書け。 |
若背広男 | でも裏、取らなくていいんすか? |
藪内 | 取りあえず第一報を書くんだよ。他社に抜かれたらどうすんだ? |
若背広男 | どこも抜かないんじゃないすか? |
藪内 | バカ、殺しだぞ。ブンヤにとっちゃ最高のメシのタネだぞ。それを書かないとあっちゃ…… |
若背広男 | 分かりました書きます書きますから、その前にちょいっと祝杯だけあげません? |
藪内 | 祝杯? |
若背広男 | ビール、せっかく奮発したんすから。(見せる) |
藪内 | ………。(じっとビールを見る) |
若背広男 | (引っ込めつつ)やっぱマズいっすね。 |
藪内 | 松木。 |
若背広男 | はい。 |
藪内 | 1本よこせ。 |
若背広男 | (渡しつつ)いきますか、いきますか。 |
藪内 | このスクープは社長賞だぞ、金一封だぞ。(開ける) |
若背広男 | え? 金もらえるんすか? いくら?(飲む) |
藪内 | 千円はかたい。 |
若背広男 | (ブッ!とビールを吹き出す) |
藪内 | (かかって)わ。 |
若背広男 | たったそんだけなんすかぁ? |
藪内 | 吹くなよ、ビールを。 |
若背広男 | ああ、すいません。(手際よくタオルを持ち出して拭く) |
藪内 | 千円っつたら大金だぞ。お前、欲しくないのか? |
若背広男 | ヤブさん……? |
藪内 | ま、記者としては金より名誉のほうが自慢だけどな。 |
若背広男 | ヤブさん、股ンとこ異様に濡れてません? |
藪内 | ……あ。 |
若背広男 | 何すか? |
藪内 | ションベン……! |
若背広男 | 漏らしたんすかぁ? |
藪内 | バ、バカなこと言うな、こぼしたんだよビールを。 |
若背広男 | こぼしたっていつ? |
藪内 | 今だよ、ほんの今、こうやってダーッと……(言いつつ自分の股間にダーッとビールをかける) |
若背広男 | ななな何やってんすか。 |
藪内 | お前がビール吹き出すから。 |
若背広男 | 俺が悪いんすかぁ? |
藪内 | しょうがないなぁ、まったく。 |
若背広男 | いいからほら早く。(抱えて行く) |
藪内 | 大丈夫だよ、ビールくらい。 |
若背広男 | ションベンも出し切って来てください。 |
藪内 | 貴様、俺を誘拐する気か? |
若背広男 | 何言ってンすか、何力入れてンすか。 |
藪内 | お漏らしなんぞしとらん。 |
若背広男 | 分かった分かりました、分かりましたけど、濡れてンだからとにかく着替えなきゃ…… |
いつのまにか大きな紙袋を提げた中年の女が現れていて−。 |
紙袋女 | どうしたんです? |
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若背広男 | (気づいて)あ……。 |
藪内 | 安江さん……! |
若背広男と紙袋女、ぎょっとなって見合う。 |
若背広男 | み、三井田の……? |
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紙袋女 | 三井田安江。で、間違いないんですね? |
藪内 | え……? |
紙袋女 | この間は里子って言いましたよ、あたしのこと。 |
藪内 | ……ま、まさかそんな、女房と間違うわけないじゃないですか。 |
紙袋女 | そうですか。 |
いつのまにか派手なパジャマを着た男が現れていて、おずおずとボソボソ声で−。 |
寝巻男 | あのぅ…… |
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若背広男 | あ、はい、何でしょう? |
寝巻男 | も少し静かにしてもらえない? 寝れなくて。 |
紙袋女 | あなたこんな時間に寝てるの? |
寝巻男 | いつ寝ようとこっちの勝手でしょう? 昼間働いてる人もいれば、夜中に汗水流す人もいる。そうやって世間はなりたってんだよ。 |
若背広男 | 分かりました、すいません。静かにしますので。 |
紙袋女 | 新婚さん? |
寝巻男 | あ、分かります? |
若背広男 | そんなことどうでもいいですから、とにかく静かにしますから。 |
寝巻男 | じゃ、お願いしますよ。 |
寝巻男は帰っていく。 |
紙袋女 | (藪内の股間に気づいて)……そこ。 |
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藪内 | あぃ、いやぁ、こいつがちょいとビールをこぼしちゃいましてね。 |
紙袋女 | ビールを?(若背広男に)そうなんですか? |
若背広男 | いや……はい。(藪内に)とにかく着替えましょ。 |