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【7】
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左の部屋に藪内が独り、じっとうずくまっている。
おびただしい数の箱に埋もれているが、その胸には小さな箱がひとつ抱えられている。
じっと中空を見ている、その右目にはフロッピーディスク……。
どこからか女の声が聞こえる。 |
女の声 | ……っぱりあたし、女の子のような気がしてきたわ。 |
藪内 | ………。(声に誘われるように、少しだけ頭があがる) |
女の声 | ……だっておなかの蹴り方がやさしいんだもの、ここに私はいますよって。ねぇねぇほらあなた、ちょっと触ってみて。……… |
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藪内は誘われた方の中空にじっと目を奪われたまま……。
両手に牛乳の入ったコップを持ってピアス男がやってきて、左の部屋に入っていき、藪内にコップを一つ突き出す。
右目に張りついているフロッピーディスクに気づいて−。 |
ピアス男 | 何くっつけてんだかなぁ。(改めてコップを突き出し)飲めば? |
藪内 | ………。(ぼんやり見るが、すぐにまた中空に目を奪われる) |
ピアス男 | 好きだろ? 牛乳、ミルクだよ。 |
藪内 | ………。(ぼんやり見る) |
ピアス男 | 遠慮すんなよ、こないだマズいって言いながらゴクゴク飲んだろ? |
藪内 | ………。(また中空に目を奪われる) |
ピアス男 | ンじゃ置いとくからよ。(行きかけて振り返り)少ないけどパソコンのお礼代わりだから。 |
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ピアス男、コップを置くと右の部屋へ行き、パソコンの電源を入れて操作し始める。
前掛け女が現れて「繋ぎ」から左の部屋をのぞき、それから右をのぞいてピアス男に−。 |
前掛け女 | あっちの牛乳、幸一君の仕業なの? |
ピアス男 | 俺、俺。じいちゃんに感謝の気持ちを込めて。 |
前掛け女 | どういうこと? |
ピアス男 | このパソコン、俺がもらうことになってさ、そのお礼。 |
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前掛け女はやや憮然とした顔で左の部屋に入り、コップを取ろうとして驚き、すぐにまた右の部屋まで上がり込み−。 |
前掛け女 | フロッピーも幸一君がやったの? |
ピアス男 | ンなことするわけねぇだろ、じいちゃん勝手にやってたの。 |
前掛け女 | 勝手に……?(行きかけてまた戻り)取ってあげようと思わないの? かわいそうじゃないの。 |
ピアス男 | 好きにやってんだから、いいじゃんかよ、させとけば。 |
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その言葉を前掛け女は最後まで聞かずに左の部屋へ行き、藪内の顔からそっとフロッピーを外す。 |
前掛け女 | ヤブさん、お茶にしましょうか? |
藪内 | ………。 |
前掛け女 | 牛乳よりお茶がいいのよね? |
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返事のない藪内を前掛け女はしばし見ている。
紙袋を提げて紙袋女が右の部屋にやってきて−。 |
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牛乳のコップを手に前掛け女、右の部屋にやってきて−。 |
前掛け女 | あの今、お茶、入れますね。 |
紙袋女 | いいのよ掛橋さん、ちょっといらして。 |
前掛け女 | はい。 |
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前掛け女はコップをパソコンの横に置き、フロッピーをピアス男に差し出して−。 |
前掛け女 | 後でその中、戻しといて。(紙袋女に向かい)すみません、何ですか? |
紙袋女 | (紙袋を差し出し)これ、大した物じゃないけどもらっといて。 |
前掛け女 | そんな、困ります。 |
紙袋女 | 長尾さんのも一緒に入ってるから。気持ちだから。 |
前掛け女 | やっぱりここ、引き払われるんですか? |
紙袋女 | 反省したのよ、あたし。こないだは本当にごめんなさいね。 |
前掛け女 | いえ……。 |
紙袋女 | 自分のことで頭がいっぱいでヤケになってたのね。 |
前掛け女 | 誰だって自分の父が父でなくなったと認めるのは辛いと思います。あの、差し出がましいんですけど。 |
紙袋女 | 何? |
前掛け女 | やっぱり専門病院にお願いしたほうがいいんじゃないかと思うんです。藪内さんにとっては専門家がいたほうが何かと、ほんとに私が言える立場じゃないんですけど。 |
紙袋女 | お気持ち、ありがとうね。でもやってみるわ。すぐイヤになっちゃうかもしれないけど。 |
前掛け女 | じゃそのときはまた私、呼んでください。 |
紙袋女 | そんな助け船出してくれてたら1週間でお願いしちゃうかもよ。 |
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背広男が左の部屋にやってきて−。 |
背広男 | 車、回してきたから。 |
前掛け女 | 松木さん、すみません、もうちょっと待ってもらえますか。長尾君、もうすぐ来ると思いますから。ちょっとだけでも会わせてあげて…… |
背広男 | ああ、全然時間は大丈夫だから。(入ってくる) |
ピアス男 | まだ時間、かかんのかよ? |
前掛け女 | 幸一君、その牛乳、お礼がわりにあげるから。もうちょっと待って。 |
紙袋女 | いいのよ、長尾さんにもあたしたちからお礼言うのが筋だもの。 |
前掛け女 | 私、ちょっと不思議なんですよ。 |
紙袋女 | 何が? |
前掛け女 | 痴呆症って普通、新しいことから忘れていくんですね。ですからそれを身近な人間関係に当てはめると、孫・子・配偶者の順に忘れていって、最後が親なんです。 |
背広男 | 親が一番古い記憶として残る……。 |
前掛け女 | ええ。でも藪内さんは、松木さんと妻の里子さんが残ったわけですよね。両親じゃなかった。 |
紙袋女 | この人は長年職場で一緒だったし、おまけに親子になっちゃったから得したわよね。何が得だか分かんないけど。 |
前掛け女 | 奥さん、藪内さんが里子さんのこともほったらかしにしたって責めてましたけど、私、もしかしたら反対に、全然ほうっておけなかったから里子さんが最後まで残ったんじゃないかと思うんです。 |
紙袋女 | どうなのかしらね。 |
背広男 | ヤブさんに聞いてみなきゃ、こればっかりはね。 |
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若背広男が現れ、「繋ぎ」から藪内の様子をちらっとのぞいて、右の部屋にやって来るや−。 |
若背広男 | ヤブさんには聞いたんすか? この家、出たいのかどうかって聞いたんすか? |
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一同、ややあっけにとられて見ている。
うずくまっていた藪内、小さな箱を抱えたままゆっくりと立ち、周囲に押しやられていた 箱を自分のほうに寄せ始める。
それは自分を円の中心に、おびただしい数の箱が藪内自身を取り囲むかのように、少しずつ並べられていく……。 |
若背広男 | 聞いてないんなら、聞いてください。 |
前掛け女 | 長尾君、それは私たちが言えることじゃないわ。 |
紙袋女 | そりゃね、答えてくれるもんなら聞きたいわよ、あたしだって。 |
背広男 | もう決めたんだよ。 |
若背広男 | それ全然、ダメっすよ。卑怯だと思います。 |
背広男 | 卑怯? |
若背広男 | 俺まだこの仕事長くないけど、ヤブさん、ほんとに生き生きしてたんすよ。ほんとに俺、できるもんならずっと松木でいたかったです。[ On Line Theater ]
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前掛け女 | それは感傷よ、長尾君の。 |
背広男 | そこまで思ってもらえて俺も嬉しいし、ヤブさんもきっと喜んでると思うよ。でも今のヤブさんはもう以前のヤブさんとは違うんだ。 |
ピアス男 | 「私はこの国の王である」 |
背広男 | え? |
ピアス男 | 「そして、私はこの国の僕である」 |
背広男 | 何言ってんだ、お前。 |
ピアス男 | そう書いてんの、ミスター・キングが。 |
若背広男 | ミスター・キングって? |
ピアス男 | じいちゃんが書いてたフロッピーだよ。 |
前掛け女 | さっきの? |
ピアス男 | そン中に書いてあんの。前にもちょっとだけ聞かされたことあるよ。 |
前掛け女 | 読んで、幸一君。読んでみて。 |
ピアス男 | 「私はこの国の王である。そして、私はこの国の僕である。この国とは他ならぬ私自身の体のことである」 |
紙袋女 | 体……? |
ピアス男 | 「私は己の体の王だから、この体の処遇は自分で決める。だが同時に私は己の体の僕なので、もし体が私の意志に反して永らえたいと望むならば、私はそれに逆らうことはできない」 |
紙袋女 | ……どういうこと? |
若背広男 | もしかしてヤブさん、察してたんじゃ……? |
背広男 | 察してたって何を? |
若背広男 | 痴呆症のことですよ。 |
前掛け女 | 予感してたって言うの? |
若背広男 | 体が私の意志に反して永らえたいと望むって、そういうことでしょう? |
背広男 | じゃ私の意志って何だよ? ヤブさん、ボケたら生きていたくない、死んだほうがましだって思ってるって言うのか? |
ピアス男 | 生きてるだろ、じいちゃんは。 |
前掛け女 | 幸一君、続きはないの? 私は逆らうことはできない。その続き。 |
ピアス男 | 「その時は、私は寂しい王様になる」 |
若背広男 | ……寂しい王様? |
ピアス男 | 「私が体の処遇を決めて王となるか、体が私の処遇を決めて寂しい王様となるか、それは分からないが、そのときまで二人の団欒を記録したい」 |
紙袋女 | 二人の団欒……? |
ピアス男 | まだ読む? |
紙袋女 | 読んで。 |
ピアス男 | 「3月10日/里子の一周忌をすませ新居に引っ越す。わずか二間ながら2人には十分の広さ。里子は佐和子が一緒でも平気ねときっと笑う。私も笑って答える」 |
紙袋女 | (思わず寄って)「3月11日/形式的にではあるが、玄関の奥を里子の部屋、手前を私の部屋と決める。置く物など何もないと里子はきっと言うが、この歳になれば私も似たようなものだと答えることにする」……… |
背広男 | ずっと? ずっと毎日、それが書いてあるのか?(寄って自分で画面を先に送り)
「9月20日/右目に異変。眼科に行くが原因は目でないとのこと。もしかしたら私は寂しい王様になるのかもしれない。だが里子との新生活を初めてまだ半年。気持ちを引き締める」
「10月2日/目が原因でないと言われても目が原因であると思いたくなる。そう思うこと自体が寂しい王様の前兆かもしれない。里子はあなたのお父さんで慣れてるから私は平気よと言うが、まだ私たちには佐和子も生まれていない」 |
紙袋女 | ……お父さん。 |
ピアス男 | ずっと生きてんだよ、じいちゃん。 |
背広男 | やり直してたんだ。 |
紙袋女 | え……? |
前掛け女 | 亡くなった里子さんとの生活、やり直してたんですね……。 |
背広男 | (紙袋女に)お前とのことだってヤブさん…… |
若背広男 | シッ……! |
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いつのまにか藪内、箱の中心に立って誰かに話しかけている。 |
藪内 | ……大丈夫、怖くない。 |
背広男 | ヤブさん……! |
藪内 | 心配するな。 |
前掛け女 | 話してる……! |
藪内 | ……怖くない。 |
紙袋女 | 誰に話してるの? |
若背広男 | シッ……! |
女の声 | ……なこと言ったって怖いのよ、なんだか。 |
藪内 | 大丈夫。 |
女の声 | ……あなたはいいわよ、あなたが産むわけじゃないんだから。 |
背広男 | 隣だ……! |
若背広男 | 隣の女の人に答えてるんすよ……! |
紙袋女 | 隣ってあの新婚の……。 |
前掛け女 | 子どものこと話してた……。 |
藪内 | 里子……? |
若背広男 | 奥さん、話しかけてください。 |
紙袋女 | あたしが? |
若背広男 | だってこないだヤブさん、松木さんと話したんしょう? それ、聞いてたんでしょう? |
紙袋女 | でもあたしのことはもう…… |
藪内 | どうした里子? |
背広男 | いいから話せよ。 |
紙袋女 | どういうふうに? |
前掛け女 | 正直に話せばいいんです。戸惑うことはないんです。 |
紙袋女 | でもあなたのほうがきっとあの人…… |
背広男 | お前が話すんだ。 |
藪内 | ……里子? |
若背広男 | ヤブさん、今、子どもが生まれるのを待ってんすよ。 |
前掛け女 | 声を、ただ声をそっと届けてあげればいいんです。 |
藪内 | ……里子、苦しいのか? |
若背広男 | 奥さん、早く。 |
背広男 | 何でもいいから話すんだ。やり直せるのは今しかないんだ。そうだろ? |
紙袋女 | ………。(背広男を見る) |
若背広男 | 奥さん。 |
藪内 | ……里子? |
紙袋女 | ……ここにいますよ。 |
藪内 | 里子……。 |
紙袋女 | ……聞こえますか? |
藪内 | 苦しいか? |
紙袋女 | 大丈夫です。大丈夫ですよ、あたし。 |
藪内 | 里子……。 |
紙袋女 | 生まれましたよ。 |
藪内 | ……生まれた。 |
紙袋女 | 女の子ですよ。聞こえますか? 女の子、ですよ。 |
藪内 | ……佐和子。 |
一同 | ……! |
紙袋女 | そう、佐和子です。あたしです……! |
藪内 | 生まれた……。 |
紙袋女 | お父さん、もう一度、あたしを生んでくれたんですね。 |
藪内 | ……佐和子だ、里子。 |
紙袋女 | あたし、生まれましたよ。 |
藪内 | ……佐和子。 |
紙袋女 | もう一度、あたしを育ててくれるんですね。 |
藪内 | ……いい名前だ。 |
紙袋女 | いい子に育ちますよ。あたし、今度はきっと、いい子に育ちますからね。 |
藪内 | ……佐和子。[ On Line Theater ]
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紙袋女 | ずっと見ててくださいね。 |
藪内 | ……ずっと……ずっと見てる。 |
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右と左、繋がれて、声を見ている人たち……。
藪内はそれまでずっと抱えていたその小さな箱を、自分の周囲に集めた箱に、やさしく、そっと、積みあげる。 |
THE END
参考および引用に使わせていただいた文献等
- 『対談・目から脳に抜ける話』養老孟司・吉田直哉/筑摩書房
- 『死ぬ前にも地獄がある〜長生きはご迷惑ですか』著・夏池弥栄子/主婦の友社
- 『ボケても心は生きている〜エスポアール病院の新たな挑戦』著・佐々木健/創元社
- 『心の医者が語る老いと痴ほうのQ&A』著・川越知勝/ミネルヴァ書房
- 『老人を棄てるな95』臨時増刊アエラNo.41/朝日新聞社
- 『8月に生まれる子供』大島弓子/角川書店
※なお、作中の痴呆症判定テストは「改定・長谷川式簡易知能評価スケール」を引用させていただきました。感謝。
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