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前掛け女、素早く「繋ぎ」に顔を出して右の部屋に−。
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前掛け女 | 松木さん、話しかけて……! |
背広男 | え? |
前掛け女 | 何でもいいから、早く……! |
背広男 | (声を張り)ヤブさん。 |
藪内 | (足が止まり)松木……! |
背広男 | はい。松木っす。 |
藪内 | お前、何してるんだ? |
背広男 | 原稿書いてるんすよ。 |
藪内 | どこで? |
背広男 | 分室です。分室で書いてるんすよ。 |
藪内 | そうか、分室にいたのか。 |
背広男 | もうちょいであがりますから。ヤブさん、そっちで待っててください。 |
藪内 | もうギリギリだぞ。間に合うのか? |
背広男 | ほんと、もうちょいすから。え〜っと、現代社会の、現代社会の根深い一面を図らずも、図らずも…… |
藪内 | まだか? 夕刊、間に合わないぞ。 |
背広男 | もうひと息。もう終わります。 |
藪内 | 急げよ、松木。 |
背広男 | 浮き彫りに、浮き彫りにした事件と言えそうだ。マルっと。 |
藪内 | できたか? |
背広男 | 今できました。ヤブさん、できました、書けたっすよ。 |
藪内 | じゃハナクソだ、ハナクソんとこ持ってってたたきつけてこい。 |
背広男 | はいっ。 |
藪内 | どうだ? ハナクソは? |
背広男 | 鼻フンフン鳴らして今原稿読んでます。 |
藪内 | そうなんだよ、ハナクソは鼻鳴らすんだよ、人の原稿読んでる時に。ンでもって時たま鼻くそくっつけるんだよ、原稿に。 |
背広男 | 今、ハナクソつけられました。 |
藪内 | つけたか? つけるんだよ、ハナクソを。よかったな。ハナクソはいい原稿にハナクソつけるんだよ。 |
背広男 | ヤブさん、OKっす、デスク通りましたっ。 |
藪内 | 直しは? |
背広男 | 見事、ゼロっ。直しありませんっ。 |
藪内 | よぉし突っ込め、原稿どぉ〜んと突っ込んでこいっ。 |
背広男 | 行ってきまぁす。 |
藪内 | 走れ、松木。 |
背広男 | 突っ込みましたぁ。 |
藪内 | 間に合ったか? |
背広男 | OKっす、締め切り、クリアしましたぁ。 |
藪内 | そうか、やったな、おい。 |
背広男 | ありがとうございます、ヤブさんのお陰っすよ。 |
藪内 | そうかそうか、やっとこれでお前も一人前だ。 |
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いつのまにか紙袋女が紙袋を提げて「繋ぎ」に立っている。 |
背広男 | ヤブさん。 |
藪内 | 何だ? |
背広男 | 実は俺、前からヤブさんにきちんと話さなきゃいけないと思ってたことがあるんすよ。聞いてもらえますか? |
藪内 | 何だよ、改まって。 |
背広男 | 結婚のことなんすけど。 |
藪内 | 結婚? |
背広男 | 俺、佐和子さんと結婚したいんすよ。 |
藪内 | 佐和子……? |
背広男 | ヤブさん、俺がヤブさんの娘さんをもらっちゃダメっすか? |
藪内 | 娘……? |
背広男 | ……ヤブさん? |
藪内 | ………。 |
背広男 | ヤブさん? |
藪内 | ………。 |
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たまりかねたように紙袋女、足早に左の部屋にあがりこむと、藪内に面と向かって立つ。 |
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紙袋女、突然藪内の腕をつかむと強引に引っ張っていこうと−。
背広男、その様子に気づいて左の部屋へ−。 |
藪内 | (驚いて)な、何ですか? |
紙袋女 | ………。(無言のまま右の部屋へ連れていこうと) |
藪内 | 誰ですか、あなた? |
前掛け女 | (止めに入り)奥さん、無理強いしないでください。 |
背広男 | (止めに入り)何やってるんだ、お前。 |
前掛け女 | 手を離してください。怯えてるじゃありませんか。 |
紙袋女 | この人は怯えるような人じゃありません。 |
背広男 | 落ち着けよ! |
紙袋女 | ほっといて! |
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そこへ若背広男が駆け込んで来て−。 |
若背広男 | 何やってるんすか? |
紙袋女 | この人は強い人なんです。強かったんです。 |
背広男 | いいから離せ! |
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背広男、紙袋女の手を強引に離す。
その激しさのあまり、紙袋女・前掛け女・背広男は転倒……。
藪内も乱れた呼吸で逃げるようにへたりこんで−。 |
若背広男 | (駆けよって)大丈夫っすか、ヤブさん。 |
前掛け女 | (紙袋女に)どうして? どうしてこんなこと……! |
紙袋女 | あたしとこの人の問題です。 |
前掛け女 | 今、思い出そうとしてたんですよ! 奇跡が起ころうとしてたんです。痴呆症の人が記憶を取り戻すなんてまずないんですよ! |
背広男 | お前が邪魔したんだぞ。せっかくヤブさん、ボケから立ち直ろうと…… |
紙袋女 | ボケだなんて決めつけないで……! |
背広男 | ………。 |
紙袋女 | この人はそんなに弱い人じゃないんです。 |
背広男 | ……今そんなこと言ったってしょうがないだろう? |
前掛け女 | 奥さん、お気持ちは分かりますが…… |
紙袋女 | 他人のあんたたちに何が分かるの? |
背広男 | おいおい、他人って俺は…… |
紙袋女 | 他人になろうとしてるじゃない。 |
背広男 | ………。 |
紙袋女 | 私は実の娘です。 |
若背広男 | お世話してきたのは他人の俺たちです。 |
紙袋女 | ………。 |
若背広男 | ほんの2か月ですけど。 |
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若背広男にすがるようにしていた藪内、ふと気づいて−。 |
藪内 | ……松木。 |
若背広男 | 何すか、ヤブさん。 |
藪内 | お前、どこ行ってたんだ、原稿書かなきゃダメじゃないか。 |
若背広男 | すいません、それが取材が長引いちゃったんすよ。 |
藪内 | じゃ、すぐ書け。里子。 |
前掛け女 | はい、何ですか。 |
藪内 | お茶だよ。お茶が欲しいな。 |
前掛け女 | あ、ごめんなさい、あたしったら気がきかないで。 |
藪内 | じゃ松木、分室に籠るぞ。 |
若背広男 | あ、はい。 |
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前掛け女は部屋を出ていき、藪内は若背広男に抱きかかえられるようにして右の部屋に向かう。
その際に藪内はふと、黙って見ている背広男と紙袋女に気づくいて 愛想笑いを浮かべて軽く会釈……。
そして「繋ぎ」に出ると若背広男に−。 |
藪内 | どうだ、スクープとれそうか? |
若背広男 | ええ、ばっちしっすよ。 |
藪内 | ブンヤはスクープとってなんぼの商売だからな。 |
若背広男 | またそれっすか、ヤブさん。もう耳にタコっすよ。 |
藪内 | 分かってるんなら、はよ書け。 |
若背広男 | はいはい。 |
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右の部屋で若背広男はパソコンに向かって原稿を打つ素振り。
左の部屋には無言のままの背広男と紙袋女が残されていて−。 |
背広男 | ……今はあれがヤブさんなんだよ。[ On Line Theater ]
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紙袋女 | ………。 |
背広男 | 昔のヤブさんじゃない。 |
紙袋女 | あなたは何だって簡単に割り切れる人よ。 |
背広男 | ………。(大きく息を吐く) |
紙袋女 | 私はそういうわけにはいかない。 |
背広男 | 俺だって努めてそうしてるんだよ、そうそう簡単に割り切れるわけないだろ。 |
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藪内 | まだか松木、原稿は? |
若背広男 | 今やり始めたばっかじゃないすか、そう急かさないでくださいよ。 |
藪内 | 急げ、急げ、間に合わないぞ。 |
若背広男 | はいはい。 |
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紙袋女 | ……父さん、あたしのこと恨んでるのよ。 |
背広男 | ……何を? |
紙袋女 | あたしが子どもの頃、父さん、会社始まって以来の大スクープを追っかけててね、もう少しで記事にできるって時にあたし、遊んでて屋根から落ちたのよ。 |
背広男 | ………。 |
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若背広男 | ヤブさん、もうのぞかなくていいっすから。 |
藪内 | 急げ、急げ、間に合わないぞ。 |
若背広男 | はいはい。 |
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紙袋女 | 現場からすぐ病院に来たわよ、何もかもほっぽり出して。 |
背広男 | ………。 |
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藪内 | ちゃんと書いてるか? |
若背広男 | 書いてますよ、もうヤブさん、じっとしててくださいよ。 |
藪内 | そうか、じゃ待ってやるか。 |
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紙袋女 | 記事はほかの新聞社に抜かれたわ。 |
背広男 | ……ヤブさんらしいな。 |
紙袋女 | 忘れられてもしょうがないのよ。 |
背広男 | それでああなったわけじゃないだろ。 |
紙袋女 | でもあたしは忘れられるわけにはいかないの。 |
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前掛け女がお茶の用意をして現れ「繋ぎ」から左の夫婦に−。 |
前掛け女 | あの、あたしが言うのもナンですけど、お茶入れましたのでどうぞご一緒に。 |
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不意に紙袋女、意を決したように前掛け女を追い越し右の部屋へ。
前掛け女と背広男も続き、その様子に驚いた若背広男も見守る中、紙袋女は藪内に面と向かって−。 |
紙袋女 | すみません、ちょっといいですか? |
藪内 | はぁ。 |
紙袋女 | 二つ三つ、お伺いしたいことがあるんですけどよろしいですか。 |
若背広男 | 何するんですか? |
紙袋女 | (紙袋からノートを出しつつ)あたしもいろいろ調べたのよ。簡単なテストで痴呆症かどうか分かるんでしょう? |
若背広男 | 奥さん……。 |
前掛け女 | (声を潜め)やめてください。 |
紙袋女 | いいじゃないの、はっきりさせたほうが。(藪内に)お歳はいくつですか? |
藪内 | ……歳、ですか? |
紙袋女 | はい。おいくつなんですか? |
藪内 | ………確か……松木、俺いくつになった? |
若背広男 | やだなぁヤブさん…… |
紙袋女 | あなたは黙っててください。(藪内に)お歳はいくつですか? |
藪内 | ……あ……え……… |
紙袋女 | 今日は何年の何月何日ですか? |
藪内 | はぁ? |
紙袋女 | 今日は何年の何月何日で、何曜日ですか? |
藪内 | 今日は……… |
紙袋女 | 分からないんですか? |
藪内 | そういえば今日はまだ新聞、見てなかったな。 |
前掛け女 | もうやめましょう。 |
紙袋女 | 私たちが今いるところはどこですか? |
藪内 | ……どこって……? |
紙袋女 | 分かるんなら答えてください。私たちが今いるところはどこですか? |
藪内 | ……どこ……(呼吸が乱れてくる) |
紙袋女 | これから言う3つの言葉を言ってみてください。 |
若背広男 | 奥さん、やめましょう。 |
紙袋女 | やらせてよ。私には最後のチャンスなんだから。(藪内に)いいですか? これから言う3つの言葉を言ってみてください。後でまた聞きますのでよく覚えておいてください。桜。猫。電車。 |
若背広男 | なんでそんなことしなくちゃいけないんです? |
紙袋女 | 邪魔しないで……!(藪内に)簡単ですよ、繰り返すだけなんだから。言ってください。桜。猫。電車。 |
藪内 | ………。(呼吸が荒い) |
若背広男 | ヤブさん、生き生きしてたじゃないすか。あんなに生き生きしゃべってたじゃないですか。 |
紙袋女 | でたらめをしゃべったってしょうがないのよ。 |
若背広男 | むしろ前より元気になってた。どうして現実に引っ張り戻さなきゃいけないんですか。 |
紙袋女 | (藪内に)100から7を順番に引いてください。100引く7は? |
前掛け女 | もうやめてください。松木さん、どうして止めないんですか? |
紙袋女 | 答えてください。100から7を順番に引いてください。100引く7は? |
背広男 | もういいだろう、佐和子。 |
紙袋女 | 答えてお父さん。100引く7は? |
背広男 | 佐和子。 |
紙袋女 | 答えてよ。私がこれから言う数字を逆から言ってください。6。8。2。 |
背広男 | やめろ! |
紙袋女 | 答えてお父さん。あたし話したいこといっぱいあるのよ。しっかりしてよ、お父さん。あたしまだ謝ってないじゃない。仕事の邪魔したこと謝ってないじゃない。答えてよ、娘として話したいこといっぱいあるのよ。怒ってたんでしょう? こんな娘いなきゃよかったって思ってたんでしょう? でもあたしは違ったのよ、お父さん。 |
背広男 | もういいよ、佐和子。 |
紙袋女 | ズルいわよ。自分だけそんなふうになっちゃうなんて、今までだって母さんとあたしのことほっといて。お父さん、あたしこれから誰に話せばいいの? ごめんなさい、ごめんなさい、謝るから、お父さん……! |
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激しく呼吸の乱れていた藪内、不意に逃げるように左の部屋へ行こうと−。 |
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藪内、引き止めようとする若背広男の手を振り払う。
さらに若背広男は引き止めようとする。藪内それも振り払う。
何度か繰り返して、藪内は左の部屋に入ると、手当たり次弟に箱をあちこちに放り投げる。
驚いて追って来た若背広男や背広男が後ろから抱きついて止めようとするが、藪内は振りきって箱を放り投げ続ける……。
やがて藪内、泣き始める……。
赤ん坊のように泣き続ける……。[ On Line Theater ]
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藪内 | (泣きながらかすかな声で)里子……里子…… |
前掛け女 | (やさしくかすかな声で)ここにいますよ、あなた。あたしはここに、すぐそばにいますよ。 |
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潮が引くように藪内の泣き声は納まってくる……。
前掛け女、そっと近づいて藪内を抱き締める……。 |
藪内 | ……里子? |
前掛け女 | もういいんですよ、もう何もしなくていいんです。 |
藪内 | ………。(じっとその顔を見る) |
前掛け女 | どうしました? |
藪内 | あんた、里子を知らんですか? |
前掛け女 | ……! |
藪内 | さっきから呼んでるんだが返事がなくてな。 |
若背広男 | 今お茶いれてるんです、すぐ来ますよ。 |
藪内 | あぁそうですか。 |
若背広男 | はい。 |
藪内 | で、あなたは………(じっと顔を見る) |
若背広男 | え? |
藪内 | どちらさんですか? |
若背広男 | ……! |
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真っ黒な大波がすべてを呑み込んだかのように、闇。 |
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