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【5】
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どこからか女の声が聞こえてくる。 |
女の声 | ……やぁねぇ、まだ生まれてもいないのに。……そんなこと言って、もし違ったらどうするのよ? ……なんなら、おなかの子に聞いてみる? |
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左の部屋に藪内が独り。
散り散りばらばらに転がる、おびただしい箱に紛れてじっとうずくまり、中空に目を奪われている。[ On Line Theater ]
若背広男が現れて「繋ぎ」から左の部屋に顔をのぞかせて−。 |
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藪内はうずくまって中空に目を奪われまま……。
若背広男はしばらく藪内を見ていたが諦めて右の部屋へ。
バッグを取って出て行こうとしてパソコンが目に止まり、近づいて電源を入れてみる。それから消す。また入れる……。
前掛け女が現れて「繋ぎ」から藪内の様子を見て、それから右の部屋に行き、ぼんやりパソコンを見ている若背広男に−。 |
前掛け女 | らしくないな。 |
若背広男 | あ……。 |
前掛け女 | と言いつつ、私も気になって早めに来ちゃった。……昨日からずっと? |
若背広男 | 俺が戻ったときには、もうあんな感じで……。 |
前掛け女 | そう……。 |
若背広男 | もう自分を取り戻せないんすかね。(パソコンを消す) |
前掛け女 | ………。 |
若背広男 | ……ヤブさんって独り暮らし何年目でしたっけ? |
前掛け女 | まだ1年たってないわよ。確か、8か月。 |
若背広男 | そんなもんなんだ。 |
前掛け女 | ………。 |
若背広男 | そんなもんで人間、変われちゃうんだ。 |
前掛け女 | あたしたちもいけなかったんだと思う。 |
若背広男 | 何が? |
前掛け女 | 必要以上に話を合わせすぎた気がする。 |
若背広男 | それはしょうがないっしょ、勝手に思いこまれたわけだし。 |
前掛け女 | きっと、ショックを倍増させたわ。 |
若背広男 | ショックも何も、今まで訳分かんなかったのが、もっと訳分かんなくなっただけっすよ。 |
前掛け女 | ずいぶん冷たいのね。 |
若背広男 | そんなふうにでも思わなきゃ、ボケ老人の介護なんてとてもとても。 |
前掛け女 | なにも背広まで着てやることなかったのよ。 |
若背広男 | 俺が悪いんすか? |
前掛け女 | だって思いこみ激しくなっちゃうわよ。背広のホームヘルパーなんている? |
若背広男 | 掛橋さんだって奥さんとして振る舞ってたじゃないすか。 |
前掛け女 | 私は否定しなかっただけ。わざわざ着替えたりしないわ。 |
若背広男 | あ、そういう言い方するんすか? |
前掛け女 | 長尾君、松木さんに口調まで合わせちゃってるし。 |
若背広男 | もともと似てたんすよ、これは。 |
前掛け女 | 日々、完璧になってたわよ。 |
若背広男 | ………。(あきれてため息) |
前掛け女 | もの真似でお金とれるわよ。 |
若背広男 | 話合わせて芝居するしかないじゃないすか、間違われる度に訂正してたら痴呆が治るってもんじゃないっしょう? |
前掛け女 | どうして治らないって決めつけるの? |
若背広男 | 治った人います? どっかいます? ボケて誰が誰やら分かんなくなったのにある日突然元通り。そんな人知ってます? |
前掛け女 | ………。 |
若背広男 | ………。 |
前掛け女 | 長尾君、どうして証券マン辞めたの? |
若背広男 | ……何すか、急に。 |
前掛け女 | どうでもいいみたい。 |
若背広男 | 何が? |
前掛け女 | 何もかもよ、どうだっていいみたいじゃない、長尾君。 |
若背広男 | じゃああ、掛橋さんは何かできるんすか? どうでもよくないこと、どうにかできるんすか? |
前掛け女 | できるかもしれないじゃない。 |
若背広男 | 医者じゃないんすよ、俺たちは。 |
前掛け女 | だからって下手な芝居して指くわえて見てるだけ? あたしたちがしてやれることは他にいくらでも…… |
若背広男 | 人が人に、何かしてやれるだなんて傲慢ですよ。 |
前掛け女 | ……傲慢? |
若背広男 | そういうの、傲慢って言うんじゃないんですか。 |
前掛け女 | ………。 |
若背広男 | ……俺たちはただのヘルパー、ただの介護人。急にボケられたって、してあげられることなんてたかが知れてるんすよ。 |
前掛け女 | ………。(若背広男を見る) |
若背広男 | (人ごとのように)悔しいっすよ。(腕時計を見て)俺、菊地さんち、回りますから。(行こうと) |
前掛け女 | 長尾君。 |
若背広男 | 何すか? |
前掛け女 | 私ね、高校に入った頃からずっと、この仕事に就こうって決めてたの。だから大学も福祉大1本に絞って、微塵の迷いもなかったの。もう6年やってるの。ずっと決めてたから。 |
若背広男 | お父さんがアルツハイマーで亡くなったからですか? |
前掛け女 | ……そういうのって、傲慢? |
若背広男 | ……すいませんでした。 |
前掛け女 | そんなつもりで言ったんじゃないのよ。 |
若背広男 | ……すいませんでした。 |
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若背広男は頭を下げて部屋を出ると、「繋ぎ」から藪内の様子をちらっとのぞいて出ていく。
前掛け女、しばらくじっと考え込んでいたが、振りきるように立ちあがって部屋を出る。
どこからか、再び女の声……。 |
女の声 | ……ぁなた、聞こえた? 考えてくれてるの? |
藪内 | ………。(ぴくりと反応する) |
女の声 | だから女の子の名前よ。勝手に決めつけられても、こればっかりは困るんだから。ちゃんと考えてよ。 |
藪内 | ………。 |
女の声 | そうねぇ……。あなたも考えてよ、女の子の名前。……… |
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声につられるかのように藪内、ゆっくりと立ちあがる。
それから、ばらばらにに飛散した箱の一つを手に取り、ぼんやり眺めて別の箱に重ねてみる……。
時に戸惑いや、恐れや、安らぎや、焦りが何度も生じてなかなか進まないが、整理しようとしているのか、藪内はおびただしい箱を積みあげていく作業を続けていく……。
紫陽花の葉を這う蝸牛のように、すべては緩慢な時にある。
前掛け女が台拭きを手に右の部屋に戻ってテーブルを拭き始める。
肩にバッグをかけ、手に大きめのラジカセを持った背広男が現れ、「繋ぎ」から藪内に−。 |
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藪内は無反応のまま、箱を積みあげる作業を続けている。
背広男、右の部屋に入りつつ−。 |
背広男 | 何してんだろうね、何にもない部屋で。 |
前掛け女 | 落ち着くみたいなんです、あのがらんとした部屋が。 |
背広男 | 不思議だよなぁ、頭ン中、どういう仕組みになってんのか。 |
前掛け女 | 頭の中で戦ってるんだと思います。 |
背広男 | 収拾つけようと思って? |
前掛け女 | ええ。 |
背広男 | それだけのバイタリティ、まだ残っててほしいよなぁ。 |
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言いつつ、背広男はバッグから新しい電池とカセットテープをラジカセにセットし始める。 |
前掛け女 | それ、何するんですか? |
背広男 | (小型のテープレコーダーも出して)ちっちゃいのとでっかいのと二つ置いてくから、こっちとあっちで録音してくんないかな。 |
前掛け女 | 何をですか? |
背広男 | ヤブさんの声だよ。このままず〜っと黙りっぱなしってことはないっしょ? |
前掛け女 | 録音してどうするんですか? |
背広男 | 自分の声を聞かせたら何か思い出すかもしれない。ヤブさんの中で何かが見えてくるかもしれない。 |
前掛け女 | ………。 |
背広男 | テープは一番長いの入れとくから、帰る時に録音ボタン押してくれるだけでいいんだけど。 |
前掛け女 | ………。 |
背広男 | なんかマズい? |
前掛け女 | なんとなく…… |
背広男 | 何? |
前掛け女 | なんとなくですけど、非人間的かなぁって。 |
背広男 | そおお? |
前掛け女 | 24時間、管理するみたいな感じで。 |
背広男 | 名案だと思ったんだけどなぁ。録音するだけっすよ。 |
前掛け女 | それに録音した自分の声って他人のように聞こえません? |
背広男 | そおお? |
前掛け女 | 私よく寝言言うんですけど、自分の悲鳴で目が覚めたりしますよ。 |
背広男 | 変わった人だね。 |
前掛け女 | いやだから、自分の悲鳴で目が覚めるってことは、自分の声が他人の声のように聞こえてるってことでしょ? |
背広男 | あ、なるほど。 |
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いつしか藪内、箱を積みあげていたその手が止まっている。
崩れて散り散りになっていた箱は、藪内の作業の結果、ある程度積みあげられて「塔のようなもの」になっている……。 |
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だがその声は、右の部屋には届かない……。 |
背広男 | 取りあえず置いとくだけでいいから。記録にも残しておきたいし。 |
前掛け女 | 記録? |
背広男 | 何かと都合いいかもしれないっしょ? |
前掛け女 | ジャーナリストととしてですか? |
藪内 | ……里子? |
背広男 | ……お宅もトゲのあることさらっと言うね。 |
前掛け女 | 別に悪意はありませんけど。 |
藪内 | 里子。 |
背広男 | けど仮にそうだとしても、ヤブさんってそれ褒める人だって気しない? |
前掛け女 | 藪内さんが褒めるかどうかは分からないけど、私はそういうの嫌いです。 |
背広男 | ンじゃ聞くけど、治んの、ヤブさん。 |
藪内 | 里子。 |
前掛け女 | ……!(はっと顔をあげる) |
藪内 | (不意に大声で)里子! |
前掛け女 | はい、今……!(ほとんど反射的に飛び出す) |
背広男 | あぁこれ。 |
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背広男、小型のレコーダーをつかんで差し出すが間に合わない。
前掛け女、左の部屋へ飛びこみながら−。 |
前掛け女 | はい、里子です。どうかしました? |
藪内 | 何してたんだ、何度も呼んだのに。 |
前掛け女 | すいません、今買物から帰ったきたばっかりで…… |
藪内 | 松木はどうした? |
前掛け女 | いつの松木さんですか? |
藪内 | いつの……? |
前掛け女 | あ、いや…… |
藪内 | お前も妙なことを言うな。いつのも何も、松木は松木だろう。 |
前掛け女 | ごめんなさい、ちょっと勘違いしちゃって。 |
藪内 | 松木幸太郎が2人も3人もいるもんか。 |
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小型レコーダーを持って「繋ぎ」から様子を窺っていた背広男、顔をのぞかせると手を振りながら−。 |
背広男 | ヤブさん。 |
藪内 | あ……?(振り向く) |
背広男 | (入って来つつ)も煮詰まっちゃって大変っすよ、連載記事。すいませんが俺の原稿、また見てもらえないすか? ほら、いつもヤブさんがバシバシ赤入れてくれてるやつ。 |
藪内 | (はっと)……あ! |
背広男・前掛け女 | 分かります? |
藪内 | ハナクソ……! |
前掛け女 | ハナクソ? |
藪内 | いゃあの、花岡部長。原稿なら今、松木、書いてますんで。(声を張り)おぉい、松木……! |
背広男 | ヤブさん……。 |
藪内 | すいません、あいつまだ駆け出しなもんで時間くっちゃって。 |
背広男 | 違うよ、ヤブさん。俺っすよ。[ On Line Theater ]
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藪内 | (声を張り)松木、さっさとあげろよ、部長、怒ってるぞ。 |
背広男 | ………。 |
藪内 | すいません、ほんと急がせますから。 |
背広男 | ……いいんだ、急いでないから。ゆっくり、いい記事書いてくれ。 |
藪内 | (きっちり一礼して)失礼します。 |
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背広男は「繋ぎ」に出ると肩で大きく息を吐いて腰をおろす。
手にあるレコーダーに気づいて、じっと見る……。 |
藪内 | (見回して)……ったく何やってんだ、松木の奴は? |
前掛け女 | ……ほんとに気に入ってるんですね、松木さんのこと。 |
藪内 | あいつはいいぞ。仕事に前向きだし、機敏に動くし、明朗快活、何より思いやりがある。やさしい男だ。 |
前掛け女 | そうですね。 |
藪内 | 婿養子にどうだ? |
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前掛け女と背広男、ともに驚いてはっと顔をあげる。 |
藪内 | やっぱあいつ、養子ってのは嫌がるかな? |
前掛け女 | い、今なんて言ったんですか? |
藪内 | (当惑しつつ)……何が? |
前掛け女 | 婿養子って言いましたよね。松木さんを誰の婿養子にするんですか? |
藪内 | 誰のって…… |
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右の部屋で携帯電話が鳴る。 |
藪内 | ……電話だ。 |
前掛け女 | 電話なんてどうでもいいから。 |
藪内 | よくないだろ、ちゃんと出なきゃ。あ……! |
前掛け女 | 何ですか? |
藪内 | 出たんだ、逮捕状……! |
前掛け女 | じゃなくて。婿養子のことですよ。 |
藪内 | 何言ってるんだ、さっさと電話出ろよ! |
前掛け女 | (思わず叫ぶ)出てよ、松木さん! |
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様子を窺っていた背広男、その言葉に弾かれたように右の部屋に入るとバッグのポケットに差しこんである携帯電話に出て−。 |
背広男 | あ、長尾君? 今どこ? こっち来れる? 来てほしいんだ。いいからすぐ来てくれ。松木が必要なんだよ。え? だから俺じゃダメなんだよっ……! |
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電話を切った背広男、右に電話、左にレコーダーを持っている自分に気づき、舌打ちしていまいましげに両方をバッグの上に放り出して、大きくため息をつく……。 |
藪内 | ……松木? |
前掛け女 | ……ごめんなさい、私ったら大きな声を出して。 |
藪内 | どこにいるんだ、松木は? |
前掛け女 | もうすぐ来ると思いますから。 |
藪内 | 今、声が聞こえたぞ。 |
前掛け女 | え……? |
藪内 | あっちか?(右の部屋へ行こうと) |
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